幽玄な祭りの光
城下町でありながら、幕府直轄地となったことで多くの豪商が生まれ、商家町として栄えた高山。今もなお古い町並みを残す目抜き通りは、ただ歩くだけでも心躍るものだ。五平餅や飛騨牛握りなどを食べ歩くもよし、味噌や地酒などの目当ての土産を探しまわるのもよし。
しかし、ぜひとも少しだけ目を止めてもらいたいものがある。それは各町内で見られる、正面に大きな扉のついた背の高い白壁土蔵のような建物だ。ここには、平時には見ることのできない屋台(やたい)(山車のことを高山ではこう呼ぶ)が保存されており、その出番の時をひっそりと待っているのだ。
高山の町が、最も活気に包まれる時期。それは春と秋だ。毎年4月14日・15日に日枝神社の例祭として開催される山王祭、10月9日・10日に行われる櫻山八幡宮の八幡祭。これらの総称である高山祭は、古くからこの地の人々を熱狂させてきた。
起源は金森家の統治時代。その後1718年頃から「動く陽明門」とも称され、その美しさやからくりの精巧さなど、飛騨の匠の技が結集した屋台が出始めることとなった高山祭。京都の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並び、日本三大美祭、日本三大曳山祭に数えられている。
特徴はなんといっても、豪華絢爛でありながらも繊細さを合わせ持つ屋台だ。町内で所持したことから、その単位団体は屋台組と呼ばれ、江戸も後期の1804年(文政元年)以降から次第に構造が整い、意匠が豪華なものになっていった。屋台組の間で、「他の組には負けまい」という競争意識が生まれ始めたのだ。特に幕末になると、大きな財力持った豪商の旦那衆が資金を提供し、匠の技を競い合わせたという。屋台は大型化し、金具や漆工、織物など意匠を各組ごとに独自に凝らしたことで、まさに飛騨人ここにあり、という代表的な文化財となったのだ。